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No.102

清浦奎吾 きようらけいご

【ジャンル】政治家

腕一本で登りつめた、正真正銘の実力派総理大臣!

■偉業・特記事項、ココがミソ!!

●大正デモクラシー(護憲運動)の盛り上がりを経て、国内の課題が山積する大正13年(1924)、総理就任。
●「関東大震災」、「虎の門事件」などの背景で延期されていた昭和天皇のご成婚を無事に行う。
●公正な衆議院総選挙を行う。
●総理大臣の職務後に就いた職で警報局長、検察庁長官となり、「教えることの初めは治めることから」の念で多数の警察規範の基をつくる (日本の安全を守る・子供にルールを守らせることを教えた)。
●明治の寺子屋→小学校へ、藩校→専門学校へと変える。 
●巡査教習官・警部補・派出所など、画期的な制度をつくる。
●明治41年、学校に日本初の図書館をつくる。
●郷里熊本で、ハンナ リデル ライトが、らい病患者施設を創設した際、寄付をして専門家のリデルに協力して孤児園を支える。

 日本の変革期となる当時の情勢下のもと、総辞職を余儀なくされ、5か月間の内閣総理大臣在籍であった。​この内閣の使命は、一つ目に「摂政宮殿下の御成婚式を無事にとり行うこと」、二つ目に 「選挙を公正に行って真に国民の意思を見ること」であり、この二つの退任を果たした以上、長く政権に留まって恋々たる必要はないとしている。与えられた仕事を忠実にこなし、潔く身を引く様は、「男の引き際」という言葉そのものだ。両親の優しさや、仏門の教えから学ぶ事が多かった幼少時代から、何をするにも、自分がどの道に行くかをしっかりと見極めていた清浦ならではの潔さであろう。
 近代日本を創り上げる激動の最中、自分を育ててくれた人々に感謝の気持ちを忘れず、強い信念をもって自分の生涯を貫いた清浦伯に学ぶことは多い!

■人物データ

●生年月日/1850年(嘉永3年)2月14日生まれ、 1942年(昭和17年)11月5日没、92歳
●出身地/肥後国鹿本郡来民村(現・山鹿市)の明照寺住職・大久保了恩の五男に生まれ、後に清浦の姓を名乗る
●職業/官僚、政治家、首相、
日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。爵位は伯爵。
幼名は普寂(ふじゃく)。旧姓は大久保(おおくぼ)。
貴族院議員、司法大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密顧問官、枢密院副議長、枢密院議長、内閣総理大臣などを歴任した。

■名言

●「限りない夢・不断の努力・感謝の心」
●四恩「親の恩・先輩の恩・朋友の恩・時世の恩」を常に忘れない
●第一に「治めること」、第二に「教えなり」

■ゆかりの地

●咸宜園(かんぎえん)/江戸時代の先哲、漢学者:広瀬淡窓によって、天領であった豊後国日田郡堀田村(現大分県日田市)に文化2年(1805年)に創立された全寮制の私塾。「咸宜」とは「みなよろし」の意味。日田で知り合った野村盛秀が埼玉県県令に命ぜられると、野村を頼って上京。

■ゆかりの人

●広瀬淡窓(日田の私塾:咸宜園創設者)
●野々村盛秀(埼玉県令。風渡野小学校:現さいたま市立七里小学校の初代j校長として清浦を招く)
●井上毅(同郷で、司法省を歴任。清浦が尊敬する先輩)
●山県有朋(第三代総理。山県閥の清浦を総理就任に後押しした人物。人脈を屈指し、藩閥政治を貫いたリーダー)
●北里柴三郎(清浦と同郷で、3歳年下の北里の子爵拝受の際、推薦をしている)
●光永星老(清浦と同郷の日本電報通信社:現電通創設者)

肖像画

家族写真

 

 

 

 

 

 

■紹介文

 大正13年(1924)1月、熊本から初めての総理大臣が誕生した。第23代 清浦内閣である。
経歴としては、同郷の井上毅を尊敬していたため同じ司法省に進み、優秀な官僚に。そこで山形有朋に見い出され、その後は山形閥の政治家として活躍。官僚から政治家へ転身する。1914年(大正3年)に総理に推薦されるが、海軍の予算折衝に失敗し断念。73歳で2度目の推薦を受けて総理の座に就いた。しかし、第二次護憲運動により半年足らずで総辞職する。門閥や閨閥とは無縁、学閥や藩閥もなく、士族でもない清浦は、腕一本で総理大臣までのぼりつめたのである。

 嘉永3年(1850)2月14日、熊本県山鹿市鹿本町来民にある「明照寺」の6人兄弟の5番目に生まれる。幼名は普寂(ふじゃく)。両親の優しさや、仏門の教えから学ぶ事が多く、素養の深い父からの影響で幼少時代から勉学に励んだ。11歳の頃には近くの医師について漢学を学び、その才能は人に抜きん出て素晴らしいものだった。

 嘉永6年(清浦が3歳の頃)、江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)ではペリーが黒船を率いて来航した頃で、何かと世情騒然としていた時代。肥後の片田舎までは及びようがなく、のんびりとしていた時代、利発な明照寺の五男坊である普寂は、町内の月隈道場で宮本武蔵の二刀流を学んでいた。将来坊さんになるつもりは一切なく、何故剣道を習うのかを問われたとき、「国のためになる立派な人になるため、勉強とともに体を鍛えている」とはっきり答えたという。

 12歳の時、名門の浄行寺に養子に出たが、読経・勤行は彼の志とも趣味とも合わず、やがて来民に帰る。13歳の秋、大津の大矢野塾に入り勉強に打ち込む。後に清浦は、「大矢野塾では学んで得るところが少なくなかった」と当時のことを振り返っている。そのころは、桜田門外の変、薩英戦争、蛤御門の変、長州征伐、勤王佐幕の争いなど天下挙げての騒ぎへと広がりつつあった変革の時代である。

 慶応元年(1865)、世情に影響を受けた清浦は、「田舎にいてもつまらない。天下の情勢を学びたい」として、広瀬淡窓(ひろせたんそう)が開塾した日田(大分)の「咸宜園」に入門。全国から秀才が集まるこの私塾では、少年たちの品性と人間形成と個性の発揮、そこに厳しいしつけがほどこされた。学問に打ち込んだ清浦は、九段階の成績で塾生達を嘆かせた「九級」に上がり、最も優秀な塾生を意味する「都講」にまで登りつめ、先生の代わりを務めるまでになる。この頃、普寂は尊敬していた松本衝(かなめ)の号に習い、「清浦奎吾」と名前をあらためる。

 明治3年(1870)、7年間の「咸宜園」の生活の後、故郷の来民にもどり、熊本城下で塾を開く。一年後、将来を目指して上京した清浦は、学校改正所で手腕を認められたのをはじめ、大審院検事局の検事、監獄局長などで活躍し、警察・監獄・地方自治において現在の基盤を作っている。また、とても良い声の持ち主だったらしく、詩吟では井上毅(いのうえこわし)を唸らせたとも。

 自身の目標を明確にし、そのためにやるべき事や自分の役目に信念を持ち行動した清浦は、周りからの信頼も厚く、変革期にあった日本を今に繋げた、まさに日本の基盤作りの祖でもあるといえよう。成るべくしてならざるを得なかった73歳の総理大臣には、その真摯な態度で挑んだ短期間の内閣であった事にも、あえて責務を全うした潔ささえ感じさせてくれる。
地元熊本県山鹿市の「奎堂文庫」は、熊本県初の内閣総理大臣清浦奎吾が、郷土の文化開発と後進の育成を祈念して創設された図書館の名称である。

■参考資料

取材先/清浦記念館
参考資料/YAMAGA 近代の山鹿を築いた人たちシリーズ001 清浦奎吾
        池上彰と学ぶ日本の総理(清浦奎吾)

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