■紹介文
L・L・ジェーンズ(リロイ・ランシング・ジェーンズ)は、1837年にアメリカ合衆国オハイオ州ニューフィラディルフィア市に生まれる。ニューヨークのウェストポイント陸軍士官学校出身の軍人であり、南北戦争ではリンカーン側の北軍に参加して、砲兵大尉になる。しかし、北軍の勝利で戦争は終わり、体調も崩したことと「戦争がないときの軍人は何の役にもたたない」と考えたことで、軍隊を辞めてメリーランド州セント・デニスで農業に従事する。
その後、日本政府法律顧問でもあった宣教師フルベッキの推選により日本に招致。既婚者であること、陸軍士官学校出身の軍人であることなどの条件により抜擢される。当初、佐賀の乱や神風連の乱などが勢いを増していたこと、外国からの軍事力抑制などの必要に迫り、軍事力養成学校軍人として召喚されていたが、ジェーンズが日本へ航海中の明治4年、廃藩置県に改定された事により、軍事力養成学校が廃止に。それにより、ジェーンズの役目は英学校教師に切り替わり、入国する事となる。
その後、熊本洋学校を設立。熊本バンド(小崎弘道、海老名弾正、金森通倫、宮川経輝、横井時雄、浮田和民、不破唯次郎らを輩出)の礎を築いた。同校では1871年から1876年まで教鞭をとり、生徒たちにベースボールも教えている。
なお、熊本洋学校は明治9年(1876年)8月、神風連の乱直前に廃校となる。ジェーンズの影響で熊本洋学校の多くの生徒がキリスト教に入信、後に熊本バンドと呼ばれることになる熱心なクリスチャンたちが花岡山で奉教結盟を行うが、この活動が当局を刺激し、熊本バンドに対する旧守派の反発が一因となったため廃校につながった。その間ジェーンズは、生徒たちを京都のミッションスクールの同志社大学に入学できるよう尽力する。
熊本洋学校が始まった最初の年には、10歳から15歳までの少年、約500名の入学希望者が集まったが、試験を受けて入学を許されたのはわずか46名だった。ジェーンズが熊本にいた5年間に約200名の生徒が洋学校に入学。自由・自主独立の気風や男女平等思想を教え、授業は、英語、文学、算術、地理、歴史、化学、物理、天文、測量、地質、生物、作文、演説など多岐にわたる授業を全て英語で行った。ジェ−ンズは、徹底した自学自習を基本とし、答えは教えずに自分で調べたり、深く考えたりするように指導している。明治7年、日本最初の「男女共学」もジェーンズによってこの熊本洋学校で始められ、徳富初子(蘇峰・蘆花の姉)や横井みや子(小楠の娘)などが入学し、この洋学校で男の生徒に混じって勉強を始めた。生徒の自主性を重んじる教育方針のもとに多彩な人材を輩出、熊本バンド結成の礎となる。
もうひとつ、ジェーンズは長い鎖国時代の封建制がもたらした弊害を取り除くことにも力を尽した。熊本の野菜は種類が少なく、栄養価も少ないと感じたのでアメリカからキャベツやカリフラワー、レタス等の野菜の種を取り寄せて栽培し、熊本に広めた。また食生活がよくないと感じ、飼っていた牛を殺して牛肉と野菜入りのシチューを洋学校の生徒たちに食べさせている。このことが熊本の人たちに初めて牛肉、牛乳、パンを食べさせるきっかけとなる。また、みかんの接木や摘果を教えて品種改良ができることを知らせたり、アメリカから取り寄せた印刷機が九州で2番目となった白川新聞の発行に一役買っている。
ジェーンズが来る前には田畑を耕すのも人が鍬を使って行っていたが、牛や馬に引かせる鋤を取り寄せて家畜を使う能率的な農業を紹介した。このように、学校の先生としてだけでなく、熊本の近代化に大きな貢献をしたのが洋学校の教師、ジェーンズであった。