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No.204

徳冨 蘆花 とくとみ ろか

【ジャンル】文化人・芸能人

自由な表現を求め続けた大ベストセラー作家

■偉業・特記事項、ココがミソ!!

●明治11年、同志社に入学し、のち民友社社員となり、翻訳・評論等を執筆。
●明治33年、代表作となる「不如帰」「自然と人生」を出版し、文壇的名声を確固とする。
●明治36年、兄との意見の相違によって、国民新聞社を辞め、黒潮社を設立。『黒潮』を自費出版し世間の反響を呼んだ。
●明治39年、パレスチナへ巡礼の旅へ、ヤスヤナ・ポリヤナにトルストイを訪問
●大正3年、『黒い眼との茶色の目』を出版

その類いまれな才能で一世を風靡した作家・徳富盧花。自分が求める思想・表現のためには、実の兄と袂を分かつことも辞さない、そんな強い信念で表現活動を続けた盧花には、表現者としての強い生き様を思い知らされる。

■人物データ

●生年月日/1868年12月8日−1927年9月18日(満58歳没)

■名言

「人間は書物のみでは悪魔に労働のみでは獣になる」

■ゆかりの地

●徳富蘇峰・蘆花生家
●『大江義塾』跡
●徳富記念園、大江義塾跡、徳富旧邸
●四賢婦人記念館
●水俣市立蘇峰記念館

■ゆかりの人

徳富蘇峰
横井小楠
横井時雄
山本久栄

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■紹介文

横井小楠門下の俊英であった父・徳富一敬の次男として肥後国に生まれる。
少年期に京都・同志社に学び、いったん熊本に戻った時期にキリスト教に入信。後に同志社に復学したが、新島襄の義理の姪との恋愛をとがめられて、上京する。
兄蘇峰の経営する出版社・思想結社『民友社』に加わり、同社の『国民新聞』『国民之友』などに原稿を寄せ、1898年(33歳)に書いた代表作の『不如帰(ほととぎす)』は、実に50万部の大ベストセラーとなり一世を風靡した。この本は、大山巌の長女・信子とその嫁ぎ先との不和を題材としたもので当時の人々の共感を呼んだ。
しかし日清戦争を契機に、蘇峰が平民主義的な立場から国家主義へと思想的立場を転じていく中での思想対立があり、1903(明治36)年には民友社を去り、自費出版した『黒潮』の巻頭に、兄との決別を告げる「告別の辞」を掲げる。その後、富士山登頂中に人事不省に陥り、回復の過程で「再生」を体験する。
 
 パレスチナへの巡礼とトルストイ訪問などを経て、世田谷の粕谷で半農生活に入る。1906年(39歳)にはトルストイ邸に5日間滞在し、農業生活をすすめられている。晩年のトルストイと一緒に馬車に乗った貴重な写真も見ることができる。トルストイから「君は農業をして生活できないか」との助言も。「世を照らす光はこれと人知るや 翁が窓のともし火のかげ」との歌も詠んでいる。1906年(明治39年)12月10日、旧制・第一高等学校の弁論部大会にて最初の講演を行なう。『勝の哀(かちのかなしみ)』の演題で、ナポレオンや児玉将軍を例に引き、勝者の胸に去来する悲哀を説き、一時の栄を求めず永遠の生命を求める事こそ一日の猶予もできない厳粛な問題であると説いた。この演説に感動した一高生の何人かは荷物をまとめて一高を去ったという。
 
1907年(明治40年)、北多摩郡千歳村字粕谷(現・東京都世田谷区粕谷)に転居、死去するまでの20年間をこの地で過ごした。1910年(明治43年)の大逆事件の際、幸徳秋水らの死刑を阻止するため、蘇峰を通じて首相の桂太郎へ嘆願しようとするが間に合わず処刑されてしまう。直後に再び一高の弁論部大会での講演を依頼されると1911年(明治44年)2月1日、一高(新渡戸稲造校長)において『謀叛論』の題で論じ、学生に深い感銘を与えた。この講演を依頼した学生が、ともに戦後に社会党委員長となる河上丈太郎や文部大臣となる森戸辰男だった。1911年の一高弁論部の河合栄次郎・河上丈太郎らの要請で行った演説「謀反論」の資料をみると、「幸徳君(幸徳秋水)らは時の政府に謀反人と見做されて殺された。が、謀反を恐れてはならぬ。、、、」から始まっている。そして「新しきものは常に謀反である」との言葉が続いている。この講演は大きな問題となり、校長の新渡戸らは処分を受けている。
1919(52歳)年には愛子夫人を伴い世界一周の旅にも出ている。
 
1927年(昭和2年)、病に倒れ、療養先の伊香保において絶縁していた蘇峰と対面し和解「後のことは頼む」と遺言して死去したという。享年は数えで60歳、満58歳だった。
兄蘇峰は95歳までの長寿を全うしたのに比べるといかにも若い死であった。
 
作品・日記[編集]
『不如帰』(1898年 - 1899年)
『灰燼』
『自然と人生』(1900年)
『思出の記』(1900年 - 1901年)
『黒潮』(1902年)
『寄生木(やどりぎ)』
『みみずのたはこと』(1913年)
『黒い目と茶色の目』(1914年)
『蘆花日記』 全7巻、筑摩書房−大正初期の日記

■参考資料

徳富蘇峰・蘆花生家【WEBサイト】
【WEBサイト】

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