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No.021

宮崎 滔天 みやざき とうてん

【ジャンル】その他

日本、中国の架け橋となった偉大な革命家!

■偉業・特記事項、ココがミソ!!

●自伝『三十三年の夢』は中国語にも訳され、革命家・孫文と滔天の名を日本と中国に知らしめることなった。
●孫文と、日本に亡命中だった革命家・黄興の手をつながせ中国同盟会の創立に参画。その機関誌である『民報』の発行所を引き受けたり、『革命評論』を創刊するなどの活動を続ける。そしてついに1911年10月「武昌蜂起」が起こり、翌1月、孫文が大総統に就任し中華民国が誕生。ついに辛亥革命は成し遂げられた。
●アジア解放と理想国の建国を見据えていた宮崎兄弟が、孫文にとってなくてはならない存在だったことは、孫文が述べたとされる「革命におこたらざるものは宮崎兄弟なり」という言葉からも分かる。宮崎兄弟は、今もなお中国と日本のかけ橋となっている。

中華民国の誕生に大きく貢献した宮崎滔天。今なお、中国と日本の架け橋として語り継がれる革命家だ。度重なる挫折を乗り越え、大きな志のもと突き進んだ人生には、多くのドラマと感動、そしてたくさんの学ぶべきことがある。

■人物データ

●生年月日/明治4年12月3日(1871年1月23日)
●出身地/肥後国玉名郡荒尾村大字荒尾949(現在の熊本県玉名郡荒尾市)
●職業/革命家、浪曲家
●没年月日/- 大正11年(1922年)12月6日
●家族/兄に社会運動家の宮崎八郎、宮崎民蔵、宮崎彌蔵の八男として生まれる。

■名言

「社会の改造は人心の改造を基礎とす」

「人類が謝恩共済の真意義を覚めるに依って初めて世界の平和を見るべきである」

■ゆかりの地

●宮崎兄弟生家(荒尾)
●宮崎兄弟資料館(荒尾)

■ゆかりの人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■紹介文

 本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に郷士宮崎政賢(宮崎長兵衛)の八男で末子として生まれる。兄に社会運動家の宮崎八郎、宮崎民蔵、宮崎彌蔵がいた。父には山東家伝二天一流を兄たちとともに習っている。
 熊本で徳富蘇峰が主宰していた私塾「大江義塾」でキリスト教や自由主義思想を学び、閉鎖まで義塾で就学した。その後上京し、東京専門学校(後の早稲田大学)に入ったが、大江義塾との学風の違いからすぐに中退。その後、自由民権運動を識り、またキリスト教に帰依、その後アジア革命(アジア主義運動)に関心を深めた。
 1891年(明治24年)、初めて上海に渡航。東学党の変があり、日本と清国との交渉はついに切迫し、岩本千綱とともに暹羅植民開拓事業に着手したが、志を得ることなく帰国し、外務省の命によって中国秘密結社の実情観察におもむき、中国革命党員との往復があった。
 1897年(明治30年)に孫文(孫逸仙)と知り合い、以後中国大陸における革命運動を援助、池袋で亡命してきた孫文や蒋介石を援助した。一旦はこの運動に挫折し、自分を見つめ直す意図で桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門の名で浪曲師となる。しかし革命の志を捨てたわけではなく、1905年(明治38年)には孫文らと東京で革命運動団体「中国同盟会」を結成した。なお滔天は辛亥革命の孫文のみならず朝鮮開化党の志士金玉均の亡命も支援しているが、その金玉均が上海で暗殺された後に、遺髪と衣服の一部を持ち込み日本人有志で浅草本願寺で葬儀を営むという義理人情に溢れた人物であった。
 1898年(明治31年)、戊戌の政変においては香港に逃れた康有為をともなって帰朝し、朝野の間に斡旋し、1899年(明治32年)の米比戦争においては参画するところがあった。
 哥老会・三合会・興中会の3派の大同団結がなり、1900年(明治33年)恵州義軍が革命の反旗をひるがえすと、新嘉坡(現在のシンガポール)にいた康有為を動かして孫文と提携させようと謀った。しかし刺客と疑われて追放命令を受け、香港に向かったもののそこでもまた追放令を受け、船中において孫逸仙と密議をこらしたが、日本国内における計画はことごとく破れ、資金も逼迫し、政治的画策は絵に描いた餅になってしまった。
 この時期に半生記『三十三年の夢』を著述し、1902年(明治35年)に『狂人譚』と共に、國光書房で出版した。1907年(明治40年)頃より『革命評論』を編集発行、1912年(明治45年)1月に、口述筆記『支那革命軍談 附.革命事情』(高瀬魁介編、明治出版社)を出版し、辛亥革命の宣伝につとめた。亡くなる前年まで大陸本土に度々渡航した。
 大正11年(1922年)12月6日、腎臓病による尿毒合併症により東京で病没した。享年51歳。上海でも孫文ら主催で追悼会が催された。東京文京区の白山神社境内には孫文が亡命中に滔天とともに座った石段が孫文を顕彰する碑とともに保存されている。日本人として、山田良政・山田純三郎兄弟とともに辛亥革命支援者として名を残す。

■参考資料

横田順彌『明治おもしろ博覧会』(西日本新聞社、1998年)155-158頁
鹿野政直『近代国家を構想した思想家たち』(岩波書店、2005年)112-117頁
【WEBサイト】
 

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