■紹介文
明治30年湯島村立尋常小学校入学、明治34年3月、4年課程修了して湯島村役場使丁となった。
明治40年頃18歳で貿易商を営んでいた親戚を頼って長崎に渡り、上海に渡航して支配人や自ら事業を為す。大陸では持ち前の努力と気骨により、実業界で大成功をおさめた。この時期には湯島から上海や南米に渡り財を蓄え日本との為替差益により今の貨幣にて億単位の資産を作り湯島に帰島するものが多数いた。28歳頃帰国。上村江樋戸(現大字上字江樋戸)に元大庄屋吉田家の別邸を購入し両親とともに住んだ。
大正9年30歳で菊池市の渡辺静子と結婚し熊本市に居を定めた。このころ政界入りして郷土のために尽くしたいという機をうかがっていたが、そのためには学問が必要と考え、自らのさらなる学業として大正11年早稲田大学専門部法科に入学して卒業した。
昭和10年45歳で熊本県議会議員(天草郡区から立候補)に当選。天草架橋開通式より30年前の昭和11年12月3日、県議会にて提案演説を行った。天草の振興は橋にて九州本土と陸続きにする事「島々に架橋架設」天草五橋の構想を提案したが、周囲の反応は冷ややかで実現不可能ということから「ゆめの架け橋」と言われたという。当時の県知事は工事困難、多額の費用がかかるという事で実現は難しいと答え、この提案は一旦消滅状態となった。
県会議員は1期にて辞し参議員選挙に出たり子飼いの旧・細川邸の自宅に有為な青年を集め熊本大学の前身熊本工科学校での勉学を許した。書生として湯島からも数人身を寄せていた。大戦中は国策に沿って三菱飛行製作所を熊本市健軍村に誘致し顧問をしたり、時の熊本県知事櫻井氏と懇意にし,数多くの業界の顧問として生業を為していた。
昭和29年、蓮田県議により天草架橋の再提案がなされ、天草郡民の架橋建設の機運が高まり、翌1月に天草架橋期成会が結成された。会長に桜井熊本県知事・森慈秀は副会長に選出され、橋を架けるために島民25万人による「一人1円献金」運動が始まった。森慈秀は天草架橋の早期実現を願って大矢野町民から町長出馬の要請があり、昭和33年4月に第2代の大矢野町長に就任した。68歳だった。町長就任後はなお一層架橋実現に情熱を燃やし、森町長をリーダーとした町議会、婦人会、青年団等町民各層による150回以上に及ぶ調査・交渉はついに県・国を動かした。昭和37年には起工式にこぎつけ、4年2ヵ月の歳月と32億円の当時としては巨費を投じて待望の「天草五橋」は完成した。
昭和41年9月24日は25万天草島民と森町長にとって待ち望んだ天草五橋の開通式の日だった。その日は台風24号の接近で早朝から雨と強風の悪天候であった。九州本土と天草の接点である1号橋(天門橋)上において、9時42分三笠宮ご臨席のもと開通式が厳かに挙行された。祝賀会では天草架橋期成会副会長であった森町長は後で有名になった「家紋入りのモーニング」を着用して「今日は私にとって人生最良の日になった」と感極まる挨拶をした。架橋に伴う数多くの難苦も歓喜にかわった瞬間だった。
町長在任中は経費節減のため公用車は使わず、もっぱら職員が運転するバイクの後ろに乗って移動した。役場に来た封筒は裏返して再利用することを職員に指導するほど無駄遣いを嫌った合理主義者だった。一方自らの給与はすべて町に寄付した。町では保管していた3期12年分の給与を財源にして「森記念図書館」を昭和52年10月に建設した。また雇用の創出と観光振興を目的に、県下で3番目となる「天草カントリークラブ」を誘致した。
天草五橋の完成記念として、町有志により銅像建設の企画が発表されると、町外から工事予定額を越える浄財が寄せられ、昭和42年12月5日2号橋の岬に建立された。
昭和45年4月24日町長退任。昭和45年6月12日、大矢野議会は大矢野町名誉町長(第1号)の称号をお贈りその労に報いた。
昭和48年4月4月15日永眠、町民はその死を悼み、生前の功績をたたえて町葬で送った。享年83歳。新聞は「夢のかけ橋残して、家紋入りモーニングにかけた闘志、質実、無欲の名物町長」と報じてその死を悼んだ。