■紹介文
万延元年(1860年)、天草の大矢野島に生まれる。明治13年(1880年)のある日、諸岡マツの経営するロシア人相手のホテル・レストランの料亭「ボルガ」を天草生まれの20歳の娘が訪ねてきた。12歳の時、両親を相次いで失い、遠縁を頼って茂木の旅館で働いていたという。その娘の名は道永栄子。
お栄はマツに近くの「ロシア将校集会所」を紹介され、住み込み家政婦として働くことになる。お栄はここでロシア語を修得。ロシア語が話せ、色白の美人で社交上手な彼女は将校達の人気者となり、その名は本国ロシアまで聞こえるようになった。21歳の時、ロシア艦隊戦艦「バルト号」の艦長に気に入られ、船長付のボーイとしてウラジオストックに渡り、ロシアで社交界の花形となるが、10年後に帰国。再びマツの片腕となって「ボルガ」で働くようになる。
明治24年(1891年)、ロシア皇太子ニコラス二世(のちの皇帝)がギリシア親王ジョージとともに極東訪問の途中、艦隊を率いて8日間、長崎に立ち寄った。22歳の若い皇太子はお忍びで上陸し、上野彦馬に写真を撮らせたり、街角で出会った少女にかんざしを買ってやったりと、愉快な数日を過ごしたという。その間、お栄は県当局の意を受けて、丸山芸者を呼んでの宴会などを設け、皇太子らを厚くもてなしたという。
明治26年(1893)、お栄はロシア軍艦で上海に渡り、帰るとすぐに、入港する船が一望できる高台(現・旭町、旭橋近く)に敷地面積300坪のホテル「ヴェスナー」を竣工させる。“ヴェスナー”はロシア語で「春」の意味。極寒の地、ロシアの人々にとっては「希望」を意味する響きだった。客室20、ロビー、宴会場、遊技場と、当時の最新の設備を備えた「ヴェスナー」は、連日連夜、カルタ遊びや酒宴が繰り広げられ大いに賑わった。その後、お栄は35歳の時に一人息子を出産している。父親は明らかにされなかったが、のちに孫のひとりは「私には四分の一、ロシアの血が流れている」と語ったという。
健康を損ねたお栄は、「ヴェスナー」の経営は諸岡マツに任せ、明治33年(1900年)、平戸小屋(現・大鳥町)の小高い丘の上にロシア高官だけを顧客とするホテルと住居を建て、順調な経営をしていたが、日露戦争が始まると「露探」「ラシャメン」「非国民」などと罵られ、家に投石されるなど迫害される日々が続いた。
明治38年(1905年)、ロシアは降伏し、お栄は県当局から捕虜となったステッセル将軍の宿舎をとの申し入れを受け、延べ9408名のロシア軍捕虜を稲佐全域80軒で収容し世話をしている。お栄の自宅も宿舎にあてられ、彼女は紋付きの礼装で極上の紅茶を出して、ロシア人を心からもてなした。将校以外の下級兵たちも稲佐のあちこちに分宿。外出する捕虜たちを引率したお栄は、彼らが騒ぐと肝っ玉母さんのようにロシア語で一喝して黙らせたという。
戦争が終わった翌年、お栄は茂木に純洋館建ての「ビーチホテル」を開業。外国人観光客を誘致するなど経営手腕を発揮し、繁盛させた。
1927年(昭和2年)5月12日、お栄は平戸小屋のホテルに隣り合った隠居所で息を引き取った、享年67歳。稲佐の地に眠っている。
〜エピソード〜
1904年、ロシア陸軍の満州駐屯部隊総司令官クロパトキンが長崎にやって来た。ときあたかも日露戦争直前であった。満州の権益を争って、両国は抜き差しならない関係にあった。しかし長崎のクロパトキンは、お栄とともに海に舟を出し、魚釣りに興じたという。国家間は緊迫していても、ここでは和やかな時間が流れていた。そこでクロパトキンは、ふともらす「私は、もう貴方と逢う機会を持ちえないでしょう」お栄はピンと来た。ロシアは日本との開戦の決意を固めている!
クロパトキンが去ってすぐ、お栄は官憲にこの言葉を伝える。日本政府はすぐさま反応した。長崎港停泊中のロシア軍艦ポピエダ号をだ捕,敵の艦隊の戦力を少しでも裂く作戦だった。まさにお栄は、国際的なスパイとして働いた。日露戦争の激戦地二〇三高地の戦いで乃木大将の敵役として知られるクロパトキンにこんなエピソードがあった。
お栄は最期を見とった医師によると、枕元で泣いている家族を見やり「人間死ぬのは当たり前。なんで泣くのか」とたしなめた。という。
親戚の直江ヤス子さんが子供のころ、魚屋を訪ねた印象として「狭くて汚かった」と答えたとき、お栄から厳しくしかられ「親のしつけが悪い」とも言われたという。お栄はホテル業で大成功を納めるが、終生どんな相手にでも分け隔てなく接する心の持ち主だった。
長崎の郷土史家・原勇氏は「お栄さんは路傍に額づく乞食の心も、玉座にある皇帝の心もちゃんと心得ていた。それほど人心の機微をつかむことができ、またどんな難関にぶつかっても平気で突破前進し、どんな事業でも成し遂げるだけの才能と勇気と忍耐と意志の力をもっていた」と感嘆している。