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No.004

高木 惣吉 たかぎ そうきち

【ジャンル】軍人

終戦の功労者! 新時代を見据えた軍人

■偉業・特記事項、ココがミソ!!

●終戦工作に従事。各方面と連携を取りながら終戦への基盤づくりを行った。
●ブレーントラストを組織。
●当時の首相・東條英機の暗殺計画を立案。

現在の日本の姿は、高木惣吉がいなければ変わっていたかもしれない。第二次世界大戦時、本土決戦に固執する帝国陸軍中堅将校クラスの妨害を排除しつつ、終戦への基盤づくりを行ったのが彼である。徹底抗戦していたら、おそらく被害はもっと大きいものに……。戦果ではなく、戦争を終わらせるという局面で大きな功績を残した軍人なのだ。

■人物データ

●生年月日/1893年8月9日(1979年7月27日没、85歳)
●出身地/球磨郡西瀬村(現・人吉市)生まれ
●職業/海軍軍人
●身長/ cm
●体重/ kg
●最終階級/海軍少将
●学歴/球磨郡立西瀬高等小学校→通信講座で中学課程履修→東京物理学校→海軍兵学校→海軍大学校

■名言

「正直は最良の策」

■ゆかりの地

●西瀬小学校(読書が好きだった惣吉の遺志により、ご遺族から「高木文庫」が寄贈されている。毎年寄付があり、充実しているとのこと)
●鉄道院肥薩線(鉄道工事事務所事務雇員として勤める)

■ゆかりの人

東條英機

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■紹介文

 高木 惣吉(たかぎ そうきち、1893年(明治26年)8月9日 - 1979年(昭和54年)7月27日)は、日本の海軍軍人で最終階級は海軍少将。また東久邇宮内閣の内閣副書記官長を務めた。旧制中学課程を経ることなく海軍兵学校に進み、海軍大学校を首席で卒業する。健康に恵まれず、海上勤務は少なかったが主に軍政方面で活躍。海軍部外に幅広い人脈を有し、ブレーントラストを組織した。太平洋戦争の戦局悪化に伴い首相・東條英機の暗殺計画を立案したが決行直前に東條内閣が瓦解し未遂に終わる。その後は米内光政、井上成美の密命により終戦工作に従事。各方面と連携をとりながらの終戦への基盤づくりを行った功績は大きいとされる。

〜学生時代〜
 高木惣吉は人吉に生まれ、苦学の末に海軍少将となった人物。第二次世界大戦で犠牲者が増加する一方の昭和19年、戦争続行の意志も強い中、海軍大臣の命を受け、重臣たちを説得するなど戦争終結のために力を尽くした。
 高木惣吉は1893年、球磨郡西瀬村(現人吉市矢黒町)生まれ。父は酒飲みでとても貧しい家だったが、惣吉は学校の成績が良く、人吉高等小学校をトップの成績で卒業。当時高等小学校の2年から、成績の良い裕福な家の子は熊本や八代、宮崎の中学校に進んだが、家が貧しかった惣吉は当時の肥薩線の鉄道工事に従事することになる。しかし勉学の道をあきらめられなかった惣吉は仕事の傍ら通信教育で勉強を続ける。

 明治43年に上京。書生の口を見つけ、やはり働きながら東京物理学校の講義を聴講し、学費が不要という理由で「海軍兵学校」を受験。3200人中、100人しか合格しないという難関を好成績で突破します。まさにこの時こそが、高木惣吉が苦労し、努力をしてつかんだ立身へのスタートラインである。

〜軍人時代〜
 第一次世界大戦では第一特務艦隊に属し出征したが、海軍兵学校在校中から健康体ではなく海上勤務が少ない。本人は洋上勤務を希望しており、洋上勤務の辞令も出たことがあったがその度に持病が悪化し辞退せざるを得なかった。フランスから帰国後は陸上勤務に終始し、海軍省勤務時代には部外に豊富な人脈を構築した。この人脈内には高木が海軍省官房調査課長時代に南方占領地の統治を実施するに当たり、軍政関係で活躍した人物も存在した。フランスから帰国後の高木惣吉は軍令部に出仕、海軍大臣秘書官を経て海軍大学校の教官となる。昭和12年に林内閣成立、同16年に、いよいよ太平洋戦争が始まると、高木惣吉は海軍大臣の米内光政や、山本五十六、井上成美等そうそうたる海軍士官の部下として働きました。
 当初は勢いの良かった日本軍も、次第に戦局は悪化の一歩をたどるようになる。そんな中、早く戦争を終わらせないと国力が持たないと高木惣吉は判断。昭和18年11月、同郷の人吉出身で、当時毎日新聞の編集局長だった吉岡文六を訪ねる。この時彼らがどういう話をしたか、私は生前の高木惣吉に一度尋ねると、「何を話したか忘れた」ということだった。しかし、翌19年2月23日の毎日新聞に出たのは『竹槍では勝てない、飛行機だ、海洋航空機だ』という記事。大和魂をもって国民の戦意を煽っていた東条内閣は激怒、毎日新聞は発禁となり、吉岡も退職に追い込まれた。
 太平洋戦争半ばに海軍省教育局長に補職された高木は、早期終戦を模索したが、最終的に東條首相を暗殺し和平内閣を誕生させて英米間との和平を実現させるべきとの結論に達した。実際に暗殺計画を立案したものの、実行直前に東條が昭和天皇からサイパン陥落の責任を問われ内閣総辞職を決意したため、未遂に終わった。その後、小磯内閣の海軍大臣に就任した米内光政と、海軍次官に転補された井上成美から終戦工作の密命を受け、鈴木貫太郎内閣総辞職に至るまでの期間、各方面と連携をとりつつ戦争終結に向け奔走した。本土決戦に固執する帝国陸軍中堅将校クラスの妨害を排除しつつ、終戦への基盤づくりを行った。終戦直後、内閣情報局総裁・緒方竹虎に請われ東久邇宮内閣の内閣副書記官長(現在の「内閣官房副長官」)に就任。戦後処理に奔走する。何百万人という海軍兵士を、無事に内地に引き上げさせ、また、100万に及ぶ連合軍の将兵を日本へ平和進駐をさせた。その後、執筆活動に入る。著者の内容は戦争の覚え書きというべきもので、戦争の意義、戦争についてなどが高木惣吉の視線で記され、幾つかはベストセラーにもなった。

〜戦後〜
 戦後は軍事評論家として「辰巳亥子夫」のペンネームで著述活動を行いつつ、海上自衛隊幹部学校に於いて山梨勝之進と共に戦史戦略の特別講師を務める。高木が記録した政界諸情報綴は、現在国立国会図書館憲政資料室と防衛庁防衛研究所図書館史料閲覧室に保存されており、重要な資料となっている。著書に書かれた高木の批判の矛先は陸軍だけでなく、海軍に対しても戦術から人事に至るまで容赦なく書かれており、海軍兵学校が行ってきた教育に対する批判は辛辣である。これに対し「実戦に出ていない人間が何を言うか」「高木斬るべし」という批判が「矢のようにあらゆる方面から(本人談)」舞い込んできたが、三浦半島で隠棲中の井上成美に相談したところ「かまうもんか。自由な批判がなくて何が海軍だ。喉元過ぎれば熱さ忘れるというではないか。今のうちに海軍の悪かった所をどんどん書け」と激励されたという。

〜人物像〜
 幼少期から少年期にかけて辛酸を極めた生活を体験している。若い時から権威や上司に媚びない性格であり、海軍に進んでからも反骨精神が強かった。東條内閣打倒を目標として行動していた際は、憲兵を用いる東條派に逐次動向を察知されており、東條や嶋田繁太郎は高木に対し海軍次官・沢本頼雄から警告させた。高木は上司である沢本に対し決然たる反応を示したという。
 また、海軍大学校をトップの成績で卒業した高木惣吉は、フランス駐在を命じられ、そこで2年を過ごす。その前に鎌倉出身の女性(静江夫人)と結婚するが、渡仏期間に高木惣吉は、静江さんへ200余通にも及ぶ手紙を書いている。それだけでも驚きだが、すべて「愛する静江へ」「わが心の静江へ」という書き出しで始まる手紙であった。戦前の日本、しかも厳格な世界に生きる軍人が、と思うと信じられない気がするが、心やさしい高木惣吉の性格がよくあらわれているエピソードだ。

〜東條総理暗殺計画と終戦工作〜
 舞鶴鎮守府参謀長から海軍省教育局長に転補された高木は、戦局悪化を憂い、海軍部内から自己主張が無いと信頼を失っていた嶋田海軍大臣を更迭することで、和平への動きを具体化できないかと模索した。しかし、嶋田の更迭は不可能であると判断し、首相・東條英機の暗殺計画を立案するに至る。計画にはまず神 重徳大佐、小園安名大佐、渡名喜守定大佐、矢牧 章大佐、伏下哲夫主計中佐など海軍中堅クラスとも言うべき面々が参加したが、後に高松宮宣仁親王や細川護貞なども加わった。これは高木の背後に海軍の長老たちの無言の同意があった事をうかがわせる。計画では、東條が愛用していたオープンカーで外出した際に数台の車で進路を塞ぎ、海軍部内から持ち出した機関銃で射殺するという荒っぽい手口のものだった。実行直前にしてサイパン失陥の責任を問われた東條内閣が総辞職したため計画は実行されなかった。晩年の高木は「読みが浅かった。暗殺を実行したら陸海軍の対立が激化して終戦がやりにくくなった」と反省の弁を述べている。

〜阿川弘之氏コメント〜
 作家、阿川弘之氏は短編『海軍こぼれ話』の中で、「高木少将といったら皆さんおわかりか?わからないようならあんたたち、恩知らずだよ。若いから関係ないもんと思うなら、あんたたち馬鹿だよ。本土決戦派の主張に従えば、日本の存在は2000年、3000年後まで脅かされただろう。一億玉砕、徹底抗戦だったら日本人の何パーセントが生き残れたか。もしこれがフランスなら、公園のマロニエの木陰に救国の功臣高木惣吉少将の胸像かレリーフが立っているはずだ」と記しています。

■参考資料

●なごみ紀行/webサイト(熊本県)

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