■紹介文
22歳のとき渡米、苦学してフィラデルフィア・デンタルカレッジを卒業。現地に歯科医院を開業し、アメリカ本土での日本人開業歯科医師第一号となる。後にポートランド歯科医師会から技術指導のため招かれる程の技量を有した。帰国後は、アメリカでの経験を生かして、麻酔薬の実験・開発など近代麻酔学の発展に寄与するとともに、治療法についても先進の米国歯科医学を導入し、日本及び郷土の歯科医療界に多大な影響を与えた。優れた技術と識見が高く評価され、長期にわたり、文部省医術開業試験委員、また明治、大正、昭和の三代の天皇や多くの政府高官・財界人の歯科侍医として活躍した。日本の近代歯科医学の発展に貢献した実績は言うまでもないが、同学分野以外でも、東京肥後県人会を主宰し、熊本県出身者の交流、育成に努め、中央と郷土を結ぶパイプ役を果たした。
〜生い立ち〜
一井正典は、文久2年(1862)6月8日、肥後人吉寺之馬場五十三番屋敷(現在の寺町六番地付近)に生まれた。父は相良藩郡奉行、後に白川県第十四大区々長となった一井五郎。母寅子、正典はその長男である。この年は坂下門外の変、和宮降嫁、寺田屋騒動、生麦事件と事の多い年となったが、人吉でもいわゆる「寅助火事」で、町の大半が焼け、人吉城も焼け落ちる多難な年であった。6歳で明治維新を迎え、13歳で両親を失った。悪性の流行風邪のせいである。明けて明治10年、鹿児島に起った西郷隆盛の西南の役に、旧人吉藩士の従軍する者多く、正典も14歳ながら一井家の総領として出陣、熊本城攻囲戦、田原坂・吉次峠の激戦にも参加、敗兵となって帰郷したが、人吉の町並みも焼け尽くして、正典は家も屋敷も失った。それからの数年間、正典は農耕ついで郡役所雇員となって祖母と妹を養ったが、17年、江嶋五藤太の支援によりついに出奔上京する。当時の東京は、いわゆる鹿鳴館時代、楽隊の奏でる軽やかな音曲に憧れて全国から集まった苦学生や労務者たちにとって「花の東京」は幻影だった。加波山事件・秩父騒動などの反政府運動が起こり、しきりに暗いニュースが続く。こんな東京の巷に、神の救済を叫ぶ人たちがいた。師走の凍てつく街路や枯葉の舞い散る裏通りに立って、情熱を込め、諄々と神の福音を説く人々がいた。くたびれ果てた正典は、この頃、メソジスト教会を主宰する美山貫一牧師を知る。美山牧師は、このとき結婚のためアメリカから帰っていたのだが「本気でアメリカに行きたい者は、みんな僕について来い」牧師は、昂然と胸を叩いて
「僕も数年前まで、君たちと同じく貧乏で無教養だった。アメリカはそんな僕を紳士に育ててくれた」
〜渡米〜
明治18年4月3日、横浜出帆の米船アラビック号上に正典は居た。美山牧師に引率された31人の苦学生の群れの中の一人である。渡航費の準備、渡航の手続き、こまごました服装、船中で生じる外国人との騒乱などは拙著『青雲遙かなり』に詳しいから、ここでは省く。17日間の航海を終えて、サンフランシスコに上陸、2カ月後、80キロ南のサンタクララ郡ロスゲトス村の、引退した歯科医ドクトル・ヴァンデンボルグの家に住みこみ、農夫として働くことになった。61歳を期に、サンフランシスコの診療所を閉鎖したヴァンデンボルグは、ここに20エーカー(約10ヘクタール)の土地を購入して家を建て、花を植え果樹を育てて余生を送る積りである。賢い妻と3人の子供がいた。実は13年前、サンフランシスコの彼の診療所に駆けこんで来た一人の日本人がいた。歯が痛いという。治療してやったらそれが縁で、青年高山紀斎は、そのままこの診療所に住みこむことになる。それからの5年間、高山青年は実によく働いた。陰日向なく、夜昼かまわず働く、誠実で勤勉、頭もいい。やがて診療所の助手に昇格して歯科の勉強をし、医術をおぼえ、遂には歯科開業の資格をとって日本に帰り、東京で歯科医院を開いた。日本人は誠実だ、勤勉だ、あくなき向上心と謙虚な生活習慣を身につけている。この印象があって、だからこの新宅にも日本人を雇おう。日本人なら大丈夫だ。こうして正典はヴァンデンボルグ家に迎え入れられたのだが、正典がまた期待に違わぬ好青年だった。畑を耕し野菜を作るのが上手というだけでなく、指が器用で大抵の修理や工作は一人でやってのける。牛馬の世話から子供たちの相手まで、信仰心と向学心に燃えた正典の日常が、ヴァンデンボルグ家の信頼を得、夢を育て、何でも今では「マサツネ」「マサツネ」である。ついにはサノーゼの語学校まで汽車通学を許され、汽車の定期券まで買ってくれる。さらに長男ダグラスのハワイ療養に介助者として同道させられる。こうして正典は、アメリカ人家庭の、豊かで静かで、何よりも威厳と品位に富んだ生活習慣を知った。そしてその恩恵に浴した。正典はこの農場から、人吉の友人へ農業便りを発信する。そして主人の協力も得て、レッドクローバーやオーチャード・グラスなど当時の日本に一番適切だと思われる肥料草や牛馬の飼料となるアルハルハの種に加えて、カリフォルニアの西瓜や南瓜の種を送り、代わりに日本の梅や桃や桜や桐、山茶花・南天・銀杏・ホホヅキ・ホウセンカなどの種や苗を送ってもらって、屋敷の周りに植えたり蒔いたりした。ある日のこと、畑を耕していると、一人の日本人青年が通りかかり、話しかけて来た。岡山県出身で正典よりも3歳年長の29歳。ロスゲトスの小さなホテルでコックをし、一日一弗で働いているという。これが後にコミンテルン執行委員会プレシデイムに選出され、国際共産主義運動の最高指導者となった若き日の片山潜である。彼は昭和8年(1933)モスクワで死去、クレムリンの壁に葬られ「日本労働者の父」「アジア民族の師」などと称えられたが、彼の「自伝」には、ロスゲトスに「一人の邦人農夫働きおれり。彼の名は一井正典といい、村老の言を信じて営々と働く(中略)この一井正典は後年歯科医となり帰朝して神田辺にて開業している」と書いている。「米国は貧乏人でも学問の出来る国」という言葉を信じて渡米し、必死に働いている年格好もそっくりの二人の日本人青年が、ロスゲトスの丘の上で、しばらく将来を目指して立ち話をしたという頬笑ましい光景を、ここにもこうして書きとめておこう。
平成5年の3月、私が取材のためにロスゲトスを訪れたとき、ヴァンデンボルグの建てた家はそのまま残っていたが、住む人は変わっていた。庭先には日本式の池があり、池のほとりにセメントで拵えた日本灯籠があった。池も灯籠も正典が作ったものに間違いあるまい。裏手には、ヴァンデンボルグと彫りこんだ椅子があって、大きな南天の木が茂り、赤い実が沢山ついていた。このあたり南天の木はないということで、恐らく100年前に人吉から届いた南天の実を、正典がここに蒔いたものに違いない。もっと探せば、この辺り、日本種の草花や樹木が見つかるものと思われた。ヴァンデンボルグ家は断絶し、一家はコルマ市のサイプレスローン墓地に眠っている。私はその墓に花鉢を供えて帰って来たが、この墓地はまた、明治初年、熊本洋学校に居たL・ジェーンスの骨を撒いたところと聞いて、ことさらに感慨深かった。
〜歯科を志す〜
その後、正典はヴァンデンボルグの紹介で、フィラデルフィア・デンタルカレッジに入学し、ここをトップで卒業する。すでにヴァンデンボルグから歯科医学の基礎を叩きこまれていたことも役立ったが、長期の休みに、他の学生が遊びに出かけている間も、正典は学校に残って苦学をしながら勉学に励んでいた。すでに29歳になっていた。卒業にあたり正典は、学校に納入すべき金がない。ほとんど落第を覚悟したとき、81人のアメリカ人のクラスメートが、おのおの一弗ずつ出しあって正典を助けてくれた。異国でこんな友情に出あったことも、ここに記しておこう。学長の厚意で大学の助教師に残る便宜も与えられたが、正典は町に出て歯科医院を開いた。アメリカの歯科医師会々員となり、米本土で歯科を開業したのは、日本人で正典が最初である。フィラデルフィアは、ペンシルバニア州最大の都市で、風光明媚と商工業の盛んな町、アメリカ建国の当初、英国植民地から独立した十三州の代表者ジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン等がここに集まって合衆国憲法を制定した。いわばアメリカの第一歩を印した古都である。万延元年(1860)日米通商条約批准交換の使命を帯びてやって来た遣米使節新見豊前守以下70人の一行が、日米両国の国旗を掲げてニューヨークまで飛んでゆく気球を、驚きながら見送ったのもこの町であった。ここで正典は、林民雄(後に日本郵船専務)、寺島誠一郎(伯爵寺島宗則長男、後に台湾拓殖製茶会長)、松方正雄(公爵松方正義の四男、後に福徳生命保険社長)、福沢桃介(福沢諭吉の養子、後に瀬戸鉱山・大同電力社長)、岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男、後に三菱財閥の三代目)などと親交を結んだ。一年経ったころ、オレゴン州の歯科医師会から、補綴学の最新情報を伝える教授の派遣方を要請して来て、大学は正典を推薦したので、急にポートランド市に赴任することになった。ポートランドは西海岸にあり、太平洋の波が砕けるところ、祖国日本が近づくことに、正典は喜んで旅を急いだ。胸にはすでに「オレゴン州歯科医師会教授」の名刺が入っている。ポートランドは、東部のフィラデルフィアと比べて、緯度は北でもずっと明るく暖かく、毎週土曜日の午後、歯科医師会館の会議室で、大学で学んだ加工術と金冠術について、二時間ほど懸命に講義した。会長など老齢の先生方が、最前列に陣取って、正典が語る最新の医学や実技を黙々とノートにとっておられる。学問に対する衰えぬ情熱と、世代民族を越えた暖かい交流に、正典は時の経つのも忘れた。質疑応答、そして雑談となり、時には先生方の自宅に招かれ、ご自慢の庭園やバラ園を見せていただいて、お酒を馳走になったりした。改めてアメリカという国の懐の深さを思うのである。松本晉一さんが取材のためフィラデルフィアとポートランドに出かけたのは、平成六年の初夏である。フィラデルフィア・デンタルカレッジは、その後の改廃統合のためその名を留めず、テンプル大学がその名残を受け継いでいる。また正典が首席で卒業証書を手にした会場のアカデミー・オブ・ミュージックは、今もそのままで、ミラノのスカラ座を模した豪華な建物は、かつてN響の指揮者だったウォルフガング・サバリッシュが、いまここの常任指揮者として活躍しているという。ポートランドで正典が歯科医院を開いたデーカム・ビルも、今もそのまま建っている。
〜帰国〜
正典の帰国は、37年9月である。10年ぶりの故郷であった。32歳になっていた。人吉町の中ほど紺屋町の江嶋五藤太の二階に、旧友の東充・豊永信・鳥飼力太郎・田代実を始め、人吉公立病院長の西道庵先生や開業医の豊永達人先生も交えて、球磨川の鮎を肴に、球磨焼酎の献酬が始まった。正典が人吉出奔以来の積る話や、西南戦争以来の人吉の変遷など話は尽きなかったが、正典がカリフォルニアから送った植物の種子に話が及ぶと、友人たちは口々に、正典が送った各種の種子を「アメリカ種」「一井種」と称して、互いに分けあって、播種から成育まで、肥料を替えたり、日覆いをかけたり、配水に変化をつけたり、いろいろやってみたが結局だめだったという。「西瓜の蔓がみるみる伸びて、畑一杯に広がったのに、実は全くつかなかった」とか「南瓜も胡瓜も茄子も成育はよいが結果がだめ」で、当時稲留三郎の書いた「熊風土記」にも「小麦、試作スレドモ下麦ニテ?ソーメン?ニモナラズ」「カリフォルニア小麦、柄長スギテ倒レ伏ス、収穫ナシ、当郡ニハ不適ナリ」などの記事が散見する。結局、梅雨の長雨や、冬の雪や霜や、カリフォルニアの温暖な気候とはどだい条件が違っていて、耕作の技術や方法、施肥、配水の違いなど、根本的な問題が解決されていなかった。無理もないことであった。
〜近代歯科医学の先駆〜
上京した正典は、しばらく旧人吉藩主相良頼綱子爵邸に寄留しながら、今後を模索したらしい。翌年一月、高山紀斎に招かれて「高山歯科医学院」の講師となって器械学(現在の補綴学)を担当することになった。かつてヴァンデンボルグの家に寄留したことのある高山と正典二人にとって、当然のなりゆきであった。三月には神田南神保町に新築の医院が落成したので、正典は講義と診療と二足の草鞋をはいた。アメリカ帰りの先生ということで評判はよかった。二十九年一月には、非公開ながら日本最初の笑気麻酔の実験を行い、電気応用無痛法の導入、局所麻酔薬の開発も手がけた。補綴分野で最新のポーセレン医術、金冠術、補綴医療器具などを全国に普及、さらに歯科矯正学、医療管理学、患者アポイント制の導入など西洋歯科医学の先駆者的活躍が続く。その頃、高山歯科医学院(後の東京歯科大学)に学僕として働いていたのが青年野口清作である。二代目の院長となった血脇守之介の熱心な援助で、野口は医術開業試験に合格し、三十年十月、晴れて学院の病理学と薬物学の講師に採用された。これまで茶を汲んだり、庭を掃いたり、授業の合図の鐘を鳴らしていた野口は、その日から講師に昇格したのである。やがて彼は英世と改名、フレクスナー教授を頼って渡米し、ペンシルバニア大学の助手となり、ついに世界の野口英世となったことは周知のことだが、正典のフィラデルフィアでの経験も野口渡米の一因といえるであろう。正典と野口がともに学院の講師だった頃のこと、野口は講義中、東北福島弁で「ココントリ」という単語を頻繁に使ったらしい。「此処」という意味の抑揚がおかしいと、学生たちは陰でよく真似をしてはしゃいだという。一方、正典は熊本県球磨地方の方言で「ジュグリット」を頻発したらしい。例えば「口のまわりをジュグリット」と。そこで学生が、「先生、ジュグリットは英語ですか、ドイツ語ですか」と質問すると「バカモン、君達、日本語もわからんか」と叱る。「ぐるりと」という副詞に、強意の接頭語「じゅ」がついたもので、以来正典は「ジュグリット先生」の渾名を奉られた。
〜晩年〜
33年3月、正典は高山紀斎の後任として文部省医術開業試験委員となり、41年1月には宮内省侍医療御用掛となり、昭和2年3月辞任するまで、20年にわたり明治・大正・昭和三代の天皇および皇族方の診療に従事、従五位に叙せられた。晩年は荻窪(杉並区天沼一)に五千坪の別荘を構え、園芸や果樹栽培を楽しんだ。若い頃ロスゲトスの丘で果樹や園芸に苦労したのが、いま役立ったのである。温室には折々の花を咲かせ、宮内省に出仕するたびに、大正天皇には蘭の鉢、皇太后には葡萄など季節の果物を献上した。正典が育てたカトレアは、今もその品種名とともに育成者一井正典の名を伝えるという。宮内省辞任の前後、狩猟にも出かけた。庭には外国から輸入したセッター・ポインターなど十頭近い犬がいて、西園寺公爵などと、丹沢や武蔵野に出かけた。勿論熊本の細川護立侯爵は患者の一人で、九段の医院にやって来ては、ゴム床の義歯(パリ製)の調整を求められた。正典は東京の熊本県人会や球磨郡人会などにも顔を見せ、郷土の後輩たちの面倒見もよく、自宅に招いて酒宴を開いたりした。昭和4年(1929)6月5日、一井正典は突然脳溢血で倒れた。享年67歳。東京駒込染井墓地に葬られた。平成9年11月、人吉市歯科医師会は、土手町の永国寺境内に顕彰碑を建て、寺町のカトリック人吉教会の庭には「一井正典先生誕生の地」碑を建立した。顕彰碑には、26歳の正典が渡米中の後援者江嶋五藤太宛アメリカから送った手紙の一節「歯科を志す」が次の通り刻まれている。
「一井正典先生顕彰碑」
米国に今日の文明があり、日本に今も文明と称すべきものなきは、実に教育に由来する。日本は貧困によって多くの才能が消されてゆくが、これに教育の光を当てれば、いくつもの花が開き、実を結んで、やがては日本も文明国の仲間入りが出来るであろう。
そのために私は、まず以て歯科医学を修め
帰朝の暁には
一 貧民の歯痛を除きて安寧な生活を過ごさしめ
一 金銭の余裕を集めて殖産・牧畜の業を起こし
一 貧生に教育を施して日本を文明国の末端に据えるの念願あり
以上