■紹介文
大正13年(1924)1月、熊本から初めての総理大臣が誕生した。第23代 清浦内閣である。
経歴としては、同郷の井上毅を尊敬していたため同じ司法省に進み、優秀な官僚に。そこで山形有朋に見い出され、その後は山形閥の政治家として活躍。官僚から政治家へ転身する。1914年(大正3年)に総理に推薦されるが、海軍の予算折衝に失敗し断念。73歳で2度目の推薦を受けて総理の座に就いた。しかし、第二次護憲運動により半年足らずで総辞職する。門閥や閨閥とは無縁、学閥や藩閥もなく、士族でもない清浦は、腕一本で総理大臣までのぼりつめたのである。
嘉永3年(1850)2月14日、熊本県山鹿市鹿本町来民にある「明照寺」の6人兄弟の5番目に生まれる。幼名は普寂(ふじゃく)。両親の優しさや、仏門の教えから学ぶ事が多く、素養の深い父からの影響で幼少時代から勉学に励んだ。11歳の頃には近くの医師について漢学を学び、その才能は人に抜きん出て素晴らしいものだった。
嘉永6年(清浦が3歳の頃)、江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)ではペリーが黒船を率いて来航した頃で、何かと世情騒然としていた時代。肥後の片田舎までは及びようがなく、のんびりとしていた時代、利発な明照寺の五男坊である普寂は、町内の月隈道場で宮本武蔵の二刀流を学んでいた。将来坊さんになるつもりは一切なく、何故剣道を習うのかを問われたとき、「国のためになる立派な人になるため、勉強とともに体を鍛えている」とはっきり答えたという。
12歳の時、名門の浄行寺に養子に出たが、読経・勤行は彼の志とも趣味とも合わず、やがて来民に帰る。13歳の秋、大津の大矢野塾に入り勉強に打ち込む。後に清浦は、「大矢野塾では学んで得るところが少なくなかった」と当時のことを振り返っている。そのころは、桜田門外の変、薩英戦争、蛤御門の変、長州征伐、勤王佐幕の争いなど天下挙げての騒ぎへと広がりつつあった変革の時代である。
慶応元年(1865)、世情に影響を受けた清浦は、「田舎にいてもつまらない。天下の情勢を学びたい」として、広瀬淡窓(ひろせたんそう)が開塾した日田(大分)の「咸宜園」に入門。全国から秀才が集まるこの私塾では、少年たちの品性と人間形成と個性の発揮、そこに厳しいしつけがほどこされた。学問に打ち込んだ清浦は、九段階の成績で塾生達を嘆かせた「九級」に上がり、最も優秀な塾生を意味する「都講」にまで登りつめ、先生の代わりを務めるまでになる。この頃、普寂は尊敬していた松本衝(かなめ)の号に習い、「清浦奎吾」と名前をあらためる。
明治3年(1870)、7年間の「咸宜園」の生活の後、故郷の来民にもどり、熊本城下で塾を開く。一年後、将来を目指して上京した清浦は、学校改正所で手腕を認められたのをはじめ、大審院検事局の検事、監獄局長などで活躍し、警察・監獄・地方自治において現在の基盤を作っている。また、とても良い声の持ち主だったらしく、詩吟では井上毅(いのうえこわし)を唸らせたとも。
自身の目標を明確にし、そのためにやるべき事や自分の役目に信念を持ち行動した清浦は、周りからの信頼も厚く、変革期にあった日本を今に繋げた、まさに日本の基盤作りの祖でもあるといえよう。成るべくしてならざるを得なかった73歳の総理大臣には、その真摯な態度で挑んだ短期間の内閣であった事にも、あえて責務を全うした潔ささえ感じさせてくれる。
地元熊本県山鹿市の「奎堂文庫」は、熊本県初の内閣総理大臣清浦奎吾が、郷土の文化開発と後進の育成を祈念して創設された図書館の名称である。