■紹介文
土地の有力者であり合志西部高等小学校の正教員免許を持つ訓導として子弟の教育にあたっていた工藤佐一とその従兄弟、平田一十は、国の根幹をなす農村の子弟が中等以上の教育を受ける機会が少ないことを憂えていた。そこで、私財を投じて私塾『合志義塾』を創立。忠孝の倫理を人づくりの柱にした熱心でユニークな教育により、多くの人材を世に輩出した。なお、平田一十は徳富蘇峰の『大江義塾』で学んでおり、その敷地にあったカタルパの木の苗を譲り受け、『合志義塾』に移植。塾のシンボルツリーとなり、閉塾した現在でも残っている。ちなみに、このカタルパの木は同志社の創設者・新島㐮がアメリカから持ち帰った種子が大江義塾に根付いたのが始まりである。
〜いち地域の私塾が育てた多くの人材〜
合志義塾のスタートは1892(明治25)年。初年度の生徒は10〜20歳まで、総勢25名(女子2名)。その後、うなぎのぼりに増え続け、1906(明治39)年には400名を突破。その後58年にわたって地域住民のみならず、県下、はては県外からも入塾を希望する者が、その門を叩いた。明治、大正、戦時中、戦後を通して一貫して農民のために私塾であり続けたところは他に例を見ない。
〜ユニークな教育方法〜
教育勅語の精神に基づき、忠孝の倫理を人づくりの柱としながらも、生徒の育成については「自由と規律」「師弟同行」の自治自主を重んじた『合志義塾』。科目は道徳、作文、英語、日本史、外国史、動植鉱物学、代数幾何、体操、農業(男子のみ)、裁縫(女子のみ)など。その他、阿蘇まで徒歩で往復する大運動会なども行われた。
また、学校行事は学団(グループ)ごとに行われたのも特徴。5学団あり、学年ごとに3名の団監(リーダー)がいて、学団を生徒主導で率いている。学団を結成してお互いを競わせるというやり方は、英国のイートン校というパブリックスクールの伝統にも通じるものである。