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No.002

工藤左一と平田一十 くどうさいちとひらたいちじゅう

【ジャンル】学者・医者・教育者

6,590人を育てた! 農民のための私塾であり続けた『合志義塾』

■偉業・特記事項、ココがミソ!!

●2人で私塾『合志義塾』を創設。
●明治25年4月から昭和25年3月までの58年間に6,590人の同窓生を輩出。
●国の文教施策とは一線を画したユニークな農民教育を実施。
●平田一十は徳富蘇峰の『大江義塾』でも学んだ。

地域のため、子どものため、そして未来のために私塾『合志義塾』を開き、多くの人材を育てあげた2人。強い信念と大きな愛、そして類いまれな実行力は、私たちに大きな刺激を与えてくれます。その生き様に、現代社会が直面する教育問題を改善するための、大きなヒントが隠されているように思えてなりません。

■人物データ

工藤左一
●生年月日/1864年2月2日(1942年11月1日没、78歳)
●出身地/黒松生まれ
●職業/教育者

平田一十
●生年月日/1865年9月5日(1938年2月27日没、73歳)
●出身地/黒松生まれ
●職業/教育者

※2人は従兄弟にあたる

■名言

 

■ゆかりの地

●合志市黒松地区
●『大江義塾』跡
●『合志義塾』跡(カタルパの木)
●西合志郷土資料館(合志義塾扁額、合志義塾塾印)

■ゆかりの人

徳富蘇峰

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■紹介文

 土地の有力者であり合志西部高等小学校の正教員免許を持つ訓導として子弟の教育にあたっていた工藤佐一とその従兄弟、平田一十は、国の根幹をなす農村の子弟が中等以上の教育を受ける機会が少ないことを憂えていた。そこで、私財を投じて私塾『合志義塾』を創立。忠孝の倫理を人づくりの柱にした熱心でユニークな教育により、多くの人材を世に輩出した。なお、平田一十は徳富蘇峰の『大江義塾』で学んでおり、その敷地にあったカタルパの木の苗を譲り受け、『合志義塾』に移植。塾のシンボルツリーとなり、閉塾した現在でも残っている。ちなみに、このカタルパの木は同志社の創設者・新島㐮がアメリカから持ち帰った種子が大江義塾に根付いたのが始まりである。

〜いち地域の私塾が育てた多くの人材〜
 合志義塾のスタートは1892(明治25)年。初年度の生徒は10〜20歳まで、総勢25名(女子2名)。その後、うなぎのぼりに増え続け、1906(明治39)年には400名を突破。その後58年にわたって地域住民のみならず、県下、はては県外からも入塾を希望する者が、その門を叩いた。明治、大正、戦時中、戦後を通して一貫して農民のために私塾であり続けたところは他に例を見ない。

〜ユニークな教育方法〜
 教育勅語の精神に基づき、忠孝の倫理を人づくりの柱としながらも、生徒の育成については「自由と規律」「師弟同行」の自治自主を重んじた『合志義塾』。科目は道徳、作文、英語、日本史、外国史、動植鉱物学、代数幾何、体操、農業(男子のみ)、裁縫(女子のみ)など。その他、阿蘇まで徒歩で往復する大運動会なども行われた。
 また、学校行事は学団(グループ)ごとに行われたのも特徴。5学団あり、学年ごとに3名の団監(リーダー)がいて、学団を生徒主導で率いている。学団を結成してお互いを競わせるというやり方は、英国のイートン校というパブリックスクールの伝統にも通じるものである。
 

■参考資料

●合志義塾略誌(日本談義社発行)
●合志義塾史(合志義塾同窓会)
●熊本県教育史(熊本県教育会)
●熊日あれんじ(熊本日日新聞社発行)
●合志義塾展解説資料
●カタルパの樹 合志義塾ものがたり(合志市・合志市教育委員会発行)

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