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No.006

竹添 進一郎  たけぞえ しんいちろう

【ジャンル】学者・医者・教育者

歴史上の有名人と交流し、世界を駆け回った男

■偉業・特記事項、ココがミソ!!

●儒者木下犀潭の門に入り、熊本藩士として国事に奔走
●木下門下の四天王の一人。明治維新の際に藩の参謀となり、八年大蔵省に出仕。のち天津領事・朝鮮弁理公使・北京公使館書記官・韓国弁理公使等を歴任するが、清仏戦争に際し、甲申事変を指揮し失敗し、公使を辞任
●東大で経書を講じたが、のち辞し、著作活動に専念
●学士院賞受賞。

外交官でありながら、漢学者であり教育者であった竹添進一郎。3つの顔を持つ彼の生き様は、激動の時代背景の中で独自の存在感を発している。

■人物データ

●生年月日/天保13年(1842年)生まれ、天保大正6年(1917年)没、76才
●出身地/上天草市大矢野町上
●職業/外交官、漢学者、教育者
●家族/父医科竹添順左衛門 母美加

■名言

 

■ゆかりの地

●上天草市大矢野町運動公園
●竹添進一郎顕彰碑

■ゆかりの人

伊藤博文
李鴻章
勝海舟
井上毅

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■紹介文

 竹添進一郎は上天草市大矢野の誇る明治時代の外交官、漢学者、教育者であり、天保13年3月15日に医師順左衛門の四男として生まれた。名を光鴻、字を漸業卿といったが書などにはほとんど井々を用いた。
 広瀬淡窓門下だった父の手ほどきを受け三歳にして経書を暗誦したという。学問で身を立てるべく上八幡宮司二神出雲の家族となり、一時期は二神進一郎と名乗っていた。
 安政3年の15歳から熊本の木下鞾村塾に入り、やがて井上毅、木村弦雄、古荘嘉門とともに木下塾四天王と称されるまでになり、21歳にして塾長を任されている。
 慶応元年、肥後藩士として藩校時習館の居寮生となり翌年には訓導助勤を勤めた。27歳の時藩命で京都、江戸、奥州など視察したが、江戸で勝海舟と知り合い、人生の転機となった。
 明治4年の廃藩置県で職を辞し熊本の寺原瀬戸坂に塾を開いたが、その後玉名の伊倉(現玉名市)に私塾『遜志斎』を開き、子弟の訓育にあたった。遠くは天草からも塾生が入門している。
 明治7年塾を閉じて上京、勝海舟と再会、学友の井上毅を通じ伊藤博文の尽力により、駐支公使「森有礼」の随員として清国に渡り、中国大陸北部の奥地を踏破する。この時の見聞がのちの名著『桟雲峡雨日記並詩草』を著した。日本国内はおろか中国文人等の絶賛を受けた。
 明治13年より、大蔵省勤務をへて清国天津領事及び判事兼任、十五年には朝鮮弁理公使となり、琉球分島問題で井上毅らと清政府に交渉した。壬午軍乱で花房義質(よしもと)の後任韓国公使としてソウル(京城)入りし、独立党の金玉均、朴泳孝らを助け日本勢力の扶植に努めたが、独立党クーデタ(甲申政変)で日本軍を王宮に進めながら清軍に反撃され失敗した。その後政変処理を済ませ帰国。弁理公使を辞任し、無任所公使となる。
 明治26年から二年間、文部大臣井上毅の要請により、東京帝国大学教授として漢学、支那語学の指導にあたった。
 退官後は小田原に居を構え、ライフワークともいうべき『左氏会箋』の著述に没頭する。明治35年、61歳のときに大正天皇に小田原で拝謁。その夜特に召されて、御前講義をなし書を親覧にともしている。
明治37年、大著『左氏会箋』30巻15冊が刊行される。進一郎63歳の時であった。この労作によってのちに帝国学士院員と文学博士の称号を受けた。
また次女須磨子は講道館柔道始祖の喜納治五郎に嫁ぎ、その長男履信が竹添を継いでいる。
 大正6年満75歳の生涯を全うし政府から従三位勲三等を贈られた。墓は東京都小石川音羽の護国寺にある。
 昭和29年11月、熊本県は近代文学功労者として顕彰し、「刻苦勤勉の克く天下の硯学と称せられるにいたったことは洵に後進を奮起さしむるもの」と称している。
 平成10年には個人の遺訓と遺徳をしのぶよすがとして、内外の有志の賛同と協力をえて上天草市大矢野町運動公園に竹添進一郎顕彰碑に胸像が建立された。
 

■参考資料

●大矢野町史(昭和45年3月1日発行/大矢野町役場)
●大矢野町の歴史(平成14年3月25日発行/大矢野町教育委員会)
●上天草市史 大矢野町編4 天草の門(平成19年3月5日発行)
●WiKipedia

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