■紹介文
竹添進一郎は上天草市大矢野の誇る明治時代の外交官、漢学者、教育者であり、天保13年3月15日に医師順左衛門の四男として生まれた。名を光鴻、字を漸業卿といったが書などにはほとんど井々を用いた。
広瀬淡窓門下だった父の手ほどきを受け三歳にして経書を暗誦したという。学問で身を立てるべく上八幡宮司二神出雲の家族となり、一時期は二神進一郎と名乗っていた。
安政3年の15歳から熊本の木下鞾村塾に入り、やがて井上毅、木村弦雄、古荘嘉門とともに木下塾四天王と称されるまでになり、21歳にして塾長を任されている。
慶応元年、肥後藩士として藩校時習館の居寮生となり翌年には訓導助勤を勤めた。27歳の時藩命で京都、江戸、奥州など視察したが、江戸で勝海舟と知り合い、人生の転機となった。
明治4年の廃藩置県で職を辞し熊本の寺原瀬戸坂に塾を開いたが、その後玉名の伊倉(現玉名市)に私塾『遜志斎』を開き、子弟の訓育にあたった。遠くは天草からも塾生が入門している。
明治7年塾を閉じて上京、勝海舟と再会、学友の井上毅を通じ伊藤博文の尽力により、駐支公使「森有礼」の随員として清国に渡り、中国大陸北部の奥地を踏破する。この時の見聞がのちの名著『桟雲峡雨日記並詩草』を著した。日本国内はおろか中国文人等の絶賛を受けた。
明治13年より、大蔵省勤務をへて清国天津領事及び判事兼任、十五年には朝鮮弁理公使となり、琉球分島問題で井上毅らと清政府に交渉した。壬午軍乱で花房義質(よしもと)の後任韓国公使としてソウル(京城)入りし、独立党の金玉均、朴泳孝らを助け日本勢力の扶植に努めたが、独立党クーデタ(甲申政変)で日本軍を王宮に進めながら清軍に反撃され失敗した。その後政変処理を済ませ帰国。弁理公使を辞任し、無任所公使となる。
明治26年から二年間、文部大臣井上毅の要請により、東京帝国大学教授として漢学、支那語学の指導にあたった。
退官後は小田原に居を構え、ライフワークともいうべき『左氏会箋』の著述に没頭する。明治35年、61歳のときに大正天皇に小田原で拝謁。その夜特に召されて、御前講義をなし書を親覧にともしている。
明治37年、大著『左氏会箋』30巻15冊が刊行される。進一郎63歳の時であった。この労作によってのちに帝国学士院員と文学博士の称号を受けた。
また次女須磨子は講道館柔道始祖の喜納治五郎に嫁ぎ、その長男履信が竹添を継いでいる。
大正6年満75歳の生涯を全うし政府から従三位勲三等を贈られた。墓は東京都小石川音羽の護国寺にある。
昭和29年11月、熊本県は近代文学功労者として顕彰し、「刻苦勤勉の克く天下の硯学と称せられるにいたったことは洵に後進を奮起さしむるもの」と称している。
平成10年には個人の遺訓と遺徳をしのぶよすがとして、内外の有志の賛同と協力をえて上天草市大矢野町運動公園に竹添進一郎顕彰碑に胸像が建立された。