■紹介文
宮本武蔵と並ぶ、熊本が生んだ剣豪・丸目蔵人佐(くらんどのすけ)。1540年、八代生まれ。当時、八代は相良氏の支配下にあり、16歳で大畑に来襲した薩摩の兵と戦って功績をあげ、翌年故郷を離れ兵法の修行の旅へ出る。
京都で新陰流の達人・上泉伊勢守信綱の門で5年間修行を積み、永禄年間、将軍足利義輝の御前で伊勢守と演武を行ない、将軍より感状を授けられ、ついに穴沢浄賢・疋田文五郎・柳生但馬守とともに伊勢守門下の四天王と称せられる。
27歳のとき、新陰流極意免許皆伝を受けて一時帰国するが、やがてまた武者修行の旅へ。その修行で京都に行き、「肥後国求麻郡新陰流丸目蔵人佐藤原長恵並門人丸目寿斎・丸目吉兵映衛・木野九郎右衛門天下一」と書いた高札を立て、十七日間清水に参篭して真剣勝負の相手を求めたが、ついに一人の相手も現れなかったというエピソードも。
後年、蔵人佐は新陰流崩しの『タイ捨流』を案出し、当時幕府の指南役となっていた同門の柳生但馬守がいる江戸を訪れ、その優劣を決しようと申し出たが、但馬守は「優劣を決することは日本に二人の達人の一を捨てることになって惜しむべきである。それよりも天下を二分し、貴殿は関西兵法天下一、自分は関東三十三ヶ国の天下一とならん」といって双方が了解したという。
その後、相楽藩に帰藩。一武村(現錦町)に移り住み、水田を開き、畑を耕すなど農業の指導者として活躍し、1629年に89歳の生涯を終えた。村人とともに七町歩余の山野を拓き、その田畑や水路や植林地は残って今に活用されている。錦町には彼の墓(切原野堂山)とともに、太刀二振り、小刀二振り、木剣一振り、鉈一丁、巻物など数巻が残されている。墓前には追善のために村人が建てた石灯籠もある。
また、現在錦町では、剣豪「丸目蔵人」顕彰全日本選抜剣道七段選手権大会も開催されている。その際、町民の方々の家へ民泊して田舎料理を食べてもらったりと、人と人とのふれあいも大切にしている。九州管内の子どもたちを800人ぐらい集めて、試合をしたり、『タイ捨流』を伝承している方々に披露してもらうなどの、剣豪「丸目蔵人」顕彰少年剣道大会と称した剣道大会も毎年開かれている。