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No.010

金栗 四三 かなぐり しそう

【ジャンル】スポーツマン

日本人初のオリンピック選手!

■偉業・特記事項、ココがミソ!!

●マラソン選手として3度の世界記録を樹立。
●日本人初のオリンピック選手(短距離選手・三島弥彦とともに)。
●オリンピックに3度出場。
●グリコのおまけつきキャラメルに描かれているランナーのモデル。
●日本初となる駅伝「東海道五十三次駅伝」や、「箱根駅伝」を発案。
●生涯に走った距離は25万キロ(地球6周と4分の1)。
●スポーツ人として初の紫綬褒章を受章

今では日本人選手の出場も当たり前になっているオリンピック。しかし、その先陣を切ったのは、なんと熊本出身のマラソン選手なのです。金栗四三は、スポーツマンとして超一流ながら、近代体育の発展にも大きく貢献した人物。その生き様から学ぶことは多く、彼の信念である「体力、気力、努力」の言葉は、いつの時代も大切にすべきものである。

■人物データ

●生年月日/1891年8月20日(1983年11月13日没、92歳)
●出身地/玉名郡春富村(現・和水町)生まれ
●職業/マラソン選手
●身長/ p
●体重/ kg
●学歴/吉地尋常小学校→玉名北高等小学校→熊本中学玉名分校→東京高等師範学校
●自己ベストタイム/2時間32分45秒

■名言

 

■ゆかりの地

●春富小学校

■ゆかりの人

嘉納治五郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■紹介文

 金栗四三は、マラソン選手として3度の世界記録を樹立。日本人で初めて、第5回オリンピック・ストックホルム大会に出場し、第7回アントワープ大会、第8回パリ大会と3度のオリンピック出場を果たした。 また、日本初となる駅伝「東海道五十三次駅伝」や、今や正月の風物詩となり日ごろあまり陸上競技と縁のない人にも深い感動をあたえる「箱根駅伝」は金栗の発案。さらに、下関〜東京間・樺太〜東京間・九州一周を踏破し、全国走破を達成した。生涯に走った距離は25万キロ・地球6週と4分の1。日本における「マラソンの父」と称されている。
 
〜青年時代〜
 明治24年8月20日、玉名郡春富村(現・和水町)の酒造業・金栗家の8人兄姉の7番目として誕生。父親の信彦が43才のときに生まれたので、四三と命名された。吉地尋常小学校(現・和水町春富小学校)を修了、10才で玉名北高等小学校(現・南関町)に入学した金栗は、往復12キロの道のりを毎日走って通学。後にこれを回想して、「マラソンを走るようになったのは、いつの頃からですか?と、よく聞かれますが、東京高等師範の2年生の時からです。ただ、その基礎を作ったのは、小学校時代に一里半の通学をやったことによると思います」と記している。
 
〜オリンピック出場〜
 明治43年、東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学。校長の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)に才能を見出される。日本のオリンピック初参加に向けた国内予選会で2時間32分45秒を記録、当時の世界記録を27分も縮める大記録だった。明治45年、オリンピック第5回ストックホルム大会は、猛暑に見舞われ、68人の選手のうち34人がリタイアする過酷なレースに。金栗も日射病により、26.7キロ地点で意識もうろうとなり、倒れてしまいます。その後、世界記録を樹立して迎えようとした第6回ベルリン大会は無念にも第一次世界大戦のため中止。第7回でも優勝を期待されながら惜しくも16位に終わり、33歳で迎えた第8回パリ大会では、ランナーとしての円熟期を過ぎ、32.3キロ地点で意識不明となり落伍。このように、金栗の3度のオリンピックは決して芳しいものではなかったが、ストックホルム大会からパリ大会まで日本の先頭に立って走り続け、「負けても負けてもくじけない粘り強さ」は金栗の偉大さでもある。
 
〜様々な功績〜
 大正3年、22才で春野ジュヤ(通称・春野スヤ)と結婚。地理や歴史の教師として教壇に立ち、さらに走りに磨きをかける。また、ストックホルム五輪の敗因を分析、考え出した真夏の房総海岸での「耐熱練習」、心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング、そして、孤独な長距離の練習をチームでやろうという箱根駅伝の企画、さらには、女子体育の奨励など、現在のマラソン界につながるあらゆる試みが金栗の発案でなされた。
 
〜晩年〜
 昭和20年、ふるさと熊本に帰郷。21年、熊本県体育協会初代会長に就任。35年には熊本で行われた第15回国体の最終聖火ランナーを務めた。しかし、晩年になっても金栗の心残りは、初めてのオリンピック、ストックホルム大会で途中棄権したこと。そして昭和42年、75才のときにスウェーデンオリンピック委員会から、オリンピック記念行事への招待状を受け取る。このチャレンジで、金栗はついにゴール。「日本の金栗、只今ゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了する」という場内をアナウンスが流れたとき、万感の想いが金栗の胸をよぎったことだろう。
 
〜箱根駅伝〜
 正月恒例の箱根駅伝は金栗の発案であり、日本の長距離・マラソンを強くしたいという思いから始められたものである。今では、全国のマラソンランナーが出場を夢見る憧れの大会に発展。和水町では、「金栗四三氏の功績を全国にアピールしよう」と、第80回記念大会(平成16年)から最優秀選手賞として「金栗四三杯」を授与している。
「金栗四三杯」は、高さ45センチ、重さ5キログラム。金栗四三が明治44年にオリンピック国内予選で優勝した時に授与されたカップの複製。記録は2時間32分45秒で、当時の世界記録を27分も縮める大記録だった。

■参考資料

●和水町HP
●玉名市HP
●『走れ二十五万キロ マラソンの父 金栗四三伝 復刻版』(長谷川孝道/熊本日日新聞社)

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