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No.011

安本 亀八 やすもと かめはち

【ジャンル】文化人・芸能人

 

■偉業・特記事項、ココがミソ!!

●生人形を美術品まで高めた功労者。
●明治8(1875)年、上海で約60体の人形を展示。中国大陸へ興行物を持って行った最初といわれる。

かつて日本中を、そして世界を席巻した生人形があった。その作者こそ、安本亀八。類いまれな才能で、さまざまな作品をつくり上げてきたが、その背景には、時を同じくして生人形師として活躍した松本喜三郎との切磋琢磨の日々があった。同じ熊本で、同じ時代に生を受けた天才生人形師2人。何とも不思議で興味深い物語である。

■人物データ

●生年月日/1826年(1900年12月8日没)
●出身地/迎宝町(現・熊本市)生まれ
●職業/職人
●身長/ p
●体重/ kg
 

■名言

 

■ゆかりの地

●浄国寺:作品『谷汲寺観音像』所蔵
●来迎院所:作品『観音像』所蔵(春日)

■ゆかりの人

松本喜三郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■紹介文

 幕末明治期の生人形師。熊本の仏師・善蔵の子で、同郷の松本喜三郎と競い合って写実的な人形を美術品にまで高める努力をした人物。話題作の初めは、嘉永5(1852)年、大坂の難波新地で興行した生人形「いろは比喩」である。明治8(1875)年には上海へ渡ってイギリス租界で約60体の人形を展示。中国大陸へ興行物を持って行った最初といわれた。15年、東京で人気役者の似顔人形を見せたほか,「東海道五十三駅」や「鹿児島戦争実説」も制作した。晩年は長男に2代目を譲り、亀翁と名乗った。

■参考資料

●なごみ紀行/webサイト(熊本県)

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