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No.017

浜田 玄達 はまだ げんたつ

【ジャンル】学者・医者・教育者

わが国産婦人科学の始祖

■偉業・特記事項、ココがミソ!!

●明治17年、自費でドイツへ留学。内科学を専攻していたが、文部省留学生として産婦人科学を学ぶ。
●フロインド教授とウインケル教授の下で研究を重ね、明治21年、帰国直後、東京大学産婦人科主任教授の任に就く。この東大教授就任が、わが国産婦人科学の一大発展を遂げさせることとなる。
●産婆教育を行うことも首唱。

日本の産婦人科学の発展に尽力した浜田玄達。その公平無私な姿には学ぶべき点が多いとともに、この日本に生まれた私たちは、みな均しく彼の恩恵を受けているといっても過言ではないのだ。

■人物データ

●生年月日/1855年(嘉永7年)11月26日生まれ(1915年没、62歳)
●出身地/肥後国(熊本県) 宇土郡大岳村(三角町)

■名言

 

■ゆかりの地

●熊本古城医学校跡
●宇城市三角町御船(生誕の地)

■ゆかりの人

緒方正規
北里柴三郎
マンスフェルト

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■紹介文

 日本の産婦人科学のパイオニアとして日本婦人科学会を創立、会長を連続で務めた人物。また、帝大医科大(東大)教授、医科大学長、宮内省御用掛も務めた。
 
 明治13年、東大医学部を首席卒業(第3回卒業)。熊本県立医学校の校長となり、内科と眼科を教える。
明治17年、ドイツへ自費留学。初代の清水氏が亡くなったことで官費留学生に変更されてトラスブルグ大学で産婦人科学のフロイント教授の指導を受ける。帰国後直ちに産科・婦人科学の第2代教授に就任、我が国のパイオニアとして大きな役割を果たす。38歳の時、手術中に腐敗分泌物の飛沫が左眼に入り、視力障害の後遺症で12年間の大学教授を退官した。その後、お茶ノ水の東京産婦人科病院を買い取り、浜田産科婦人科病院と改め診療に従事した。
 彼の人となりについては「公平無私、権力に屈せず、婦人科学会を発足させた非凡なる感化力のある高徳の人である」と評価されている。

■参考資料

『東大産婦人科学教室創立100周年記念あゆみ・すがた』(1984年発行)抜粋

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