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No.020

鳩野 宗巴 はとの そうは

【ジャンル】学者・医者・教育者

西南戦争のもうひとつの闘い。「医」「仁」を全うした偉人!

■偉業・特記事項、ココがミソ!!

●西南戦争時、敵味方区別なく医療に従事。その活動は、日本の組織的赤十字活動の始まりとされている。
●1892年、熊本貧児寮が開所されると、進んで嘱託医となり、20年に渡って無報酬で協力した。
●1977年、熊本県近代文化功労者として表彰。

西南戦争時、敵味方の区別なく、治療に尽力した鳩野宗巴。その活動は、日本赤十字社の前身として1877年5月27日に熊本で設立された『博愛社』よりも94日早く、さらに赤十字精神に合致することから、日本の組織的赤十字活動の始まりとされている。まさに博愛人道の先駆者といえる人物なのだ!

■人物データ

●生年月日/1844年(天保15年、弘化元年)−1917年(大正6年)3月8日
74歳で没。
●出身地/熊本市
●職業/医師

■名言

「世は名利に馳せ、医も亦これを学ぶ傾向あるは、はなはだ患うべし」
 
「医は素より仁恤をもって天職とする。故にかりそめにも其の天職を忘却するが如きはもっての外の癖事なり」

■ゆかりの地

●日本赤十字活動原点の地
●拝聖院
●亀甲山光照寺
●高平の梅木小学校

■ゆかりの人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■紹介文

 1844年、熊本城下で生まれる。その後、19歳で家督を継ぎ、1868年、25歳の時に藩命で上野戦争に参加。熊本一番隊医長を務め、横浜病院(軍事病院)で薩長土3藩の負傷兵300人の治療を担当し、その功績により熊本藩より白銀3枚の賞与を受ける。
 1877年、34歳の時に西南戦争に巻き込まれる。2月23日、熊本士族の薩軍の池辺吉十郎、宮崎八郎、中津大四郎より病院を設けて治療に従事すべしと強要を受ける。宗巴は「あなた方の負傷者は実にお気の毒だが、官軍の負傷者にも手が届かずいる者が多く、また戦争の余波で負傷した罪無き普通人も少なくない。医は仁術であるので、負傷者の治療はもとより応じましょう」と答え、池辺もこれを承服した。宗巴はさっそく同僚の藩医とともに、拝聖庵や亀井村(現在の清水町亀井)に仮病院を開く。負傷者はたちまち200人に及び、近隣の学校、寺院や民家41戸を借り上げて病室とした。しかし、その後に征討軍本部から利敵行為の疑いで裁判を受けることになる。裁判の結果、「其方儀賊徒ノ為メ治療ヲナスト雖モ賊ニ与スル意ナキヲ以テ其ノ罪ヲ問ワズ 明治十年八月十一日 九州臨時裁判所」とされた。この文書は鳩野家に保存されている。
 1881年、家塾「亦楽舎」(えきらくしゃ)廃止。学んだ医世 は156名。1915年、熊本市長より慈善家として表彰を受ける。1917年3月8日、病没。墓は熊本市高麗門妙永寺にある。1977年、熊本県近代文化功労者として表彰される。

■参考資料

【WEBサイト】

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