■紹介文
肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋矢島忠左衛門直明・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名される。後に、姉の順子・久子・つせ子とともに、4人は「四賢婦人」と呼ばれるようになる。
明治5(1872)年、兄・直方を頼り上京、決意して楫子と改名する。教員養成所を経て小学校教員となるも、この間に兄の書生(既婚者)を恋し、娘を生む。今後を悩むなかで新栄女学校校長マリア・トルーに会い、同校に転じ、12年に受洗を受け、桜井女学校の校長代理となる。新栄・桜井両校合併して女子学院が成立すると院長に就任。大正3(1914)年までその教育に当たる。一方、万国キリスト教婦人矯風会からの働きかけを受け、明治19年、東京婦人矯風会(のちに全国組織)を結成。35年間、会頭を務める。そこでは一夫一婦制、廃娼、禁酒を掲げ、婦人救済館(慈愛館)の設立、婦人参政権要求などの運動を実施。晩年には国際平和を願って米国、英国での矯風会の国際会議にも出席した。