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No.022

矢嶋 楫子 やじま かじこ

【ジャンル】学者・医者・教育者

四賢婦人のひとり。教育と社会貢献に尽力!

■偉業・特記事項、ココがミソ!!

●明治14年(1881年)夏、櫻井女学校(女子学院の元となった女学校の一つ)の校主代理に就任。
●楫子は校則を作らず、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と生徒たちを諭したという。
●明治23年(1890年)、櫻井女学校と新栄女学校(B六番女学校として設立された築地居留地にある学校)は合併して女子学院となり、初代院長に推される。  

母として、教育者として、社会活動家として、波乱に満ちた人生をおくった矢嶋楫子。矯風事業に邁進した理由を、「自らの弱さから」と語ったといわれています。自らの人生を振り返り、その反省を社会活動へとつなげる。その姿からは、私たち現代人が学ぶべく多くのことがあるように感じます。

■人物データ

●生年月日/1833(天保4年)4月24日生まれ、1925(大正14年)6月16日没、92歳
●出身地/肥後国上益城郡津森村杉堂(現・上益城郡益城町)生まれ
●職業/女子教育者、社会事業家
 

■名言

あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい

■ゆかりの地

●四賢婦人(益城町)/竹崎順子(矢嶋家三女)・徳富久子(矢嶋家四女)・横井つせ子(矢嶋家五女)・矢嶋楫子(矢嶋家六女)の記念館
●熊本洋学校
明治3(1870)年―9(1876)年に熊本藩の実権を握った実学党により、西洋の文物技術を移入するために創設された学校。アメリカ陸軍士官学校出身の軍人であったL.L.(リロイ・ランシング)ジェーンズを教師として招いた。

■ゆかりの人

竹崎順子
徳富久子
横井つせ子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■紹介文

 肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋矢島忠左衛門直明・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名される。後に、姉の順子・久子・つせ子とともに、4人は「四賢婦人」と呼ばれるようになる。
 明治5(1872)年、兄・直方を頼り上京決意して楫子と改名する。教員養成所を経て小学校教員となるも、この間に兄の書生既婚者)を恋し、娘を生む。今後を悩むなかで新栄女学校校長マリア・トルーに会い、同校に転じ、12年に受洗を受け、桜井女学校の校長代理となる。新栄・桜井両校合併して女子学院が成立すると院長就任。大正3(1914)年までその教育に当たる。一方、万国キリスト教婦人矯風会からの働きかけを受け、明治19年、東京婦人矯風会(のちに全国組織)を結成。35年間会頭を務める。そこでは一夫一婦制、廃娼、禁酒を掲げ、婦人救済館(慈愛館)の設立、婦人参政権要求などの運動を実施。晩年には国際平和を願って米国、英国での矯風会の国際会議にも出席した。
 

■参考資料

●新《トピックスで読む》熊本の歴史
●益城町教育委員会

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