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No.023

松田 喜一 まつだ きいち

【ジャンル】学者・医者・教育者

「昭和の農聖」と呼ばれた開拓者

■偉業・特記事項、ココがミソ!!

●農業試験場技師時代に松田式麦作法を考案するなど、革新的な食料増産技術の発展に貢献。
●日本初の民間農業実習所を開き、48年間にわたり生徒を受け入れ後進育成に献身。明治から昭和にかけて日本の農業発展に貢献。
●全国各地に赴き、講演を開き農業技術・精神の普及に尽力。「昭和の農聖」とうたわれた。

松田喜一氏は早くから「動植物循環農業」を唱え、自ら牛豚鶏を養い、排出した堆肥で作物を栽培して自己完結型の経営を教えていました。しかし、高度経済成長の時代となり、化学肥料発達。化学に頼る時代が続きます。ところが、現在は再び有機農業が注目される時代に。こだわりを持つ生産者も増え、「原点回帰」する部分も多く見受けられます。松田氏の人生は「本当に大切なことは色あせない」ことを教えてくれているようです。

■人物データ

●生年月日/1887年(明治20年)12月1日生まれ、1968年(昭和43年)7月30日没

■名言

稲のことは稲から学べ、世の中のことは世の中から学べ。
自分が変われば世の中が変わる。

■ゆかりの地

●松田喜一像(八代市昭和日進町)
●熊本農業高校(第3期卒業生)

■ゆかりの人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■紹介文

 松田喜一は熊本県の現宇城市松橋町豊川で生まれた、農業研究者・教育者・著述家です。
 1902年(明治35年)、熊本県立農業学校へ入学。卒業後、1911年(明治44年)には熊本県立農業試験場勤務県技手県技師となりました。この間に日本各地を巡り、農業研究を行います。その際、松田式麦作法を公にし、全県下に普及。有名になりました。1918年(大正7年)には肥後農林商会を組織し、日本農友会を結成。同年11月には雑誌『農友』を発刊しました。1920年(大正9年)3月、熊本県立農試験場を退職。農業経営者の育成を目的として、肥後農友会実習所を開設します。しかし、当時は第一次世界大戦後で、大不況の時代。経営は困難になり、干拓が進められていた県営南新地に新天地を求める事になります。
 1928年(昭和3年)4月、現合志市の黒石原農友会実習所から八代市昭和村干拓地に移転。昭和村に於ける自習所の教育経営を始めます。昭和を理想の村にするため、喜一は人づくりに力をいれ、第一歩として農友会実習所を昭和に正式に移転させて活動を始めました。
 その後、彼は48年間にわたり農業実習所にて生徒を受け入れ、後進育成に献身しました。また、全国各地にも赴き講演を行い、農業技術・精神の普及にも尽くしました。熊本県八代市の松田農場において、彼に直接教育を受けた生徒は約3600名、講習を受けた者は約4万人にも及びます。雑誌『農友』もその後50年間にわたり刊行し続け、毎号、皇室にも届けられました。昭和天皇の巡幸、各皇族の視察も受けています。その他にも50冊に及ぶ著書も執筆しました。
 1968年(昭和43年)7月30日、矢部農業高校生を前にした講習中に倒れ、80歳で亡くなりました。亡くなった後、日本は高度経済成長の時代となり化学肥料の発達と同時に松田の推奨していた有機栽培は敬遠されていきます。しかし現在、土作りの大切さや有機栽培の大切さ、こだわりの農業をアピールする時代が到来しました。鍬を持ち生涯に亘って理想の農業を目指し続けた松田喜一の精神はこうして、現代にも受け継がれています。

■参考資料

●ウィキペディア
●熊本県ホームページ(【WEBサイト】
 

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